京みち探訪記
2017/08/08
「生駒の古道」の見てある記です。
参考書は、、
に加えて、
の2冊となります。前者は前回のエントリーで紹介しました。後者は昭和52年に発行されたものです。
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信仰の道「生駒・京みち」
新旧の資料を持参してのウォーキングです。
最初に「京みち」とは、
近鉄菜畑駅~西菜畑薬師堂~生駒神社(往馬大社)~小瀬橋
ルートマップです。
ヤマレコも参考にしてください。
中菜畑郵便局を過ぎたあたりから出合川沿い西へ進みます。
往時は西菜畑薬師堂が大変な人気スポットでした。
南北の連絡道というよりも、薬師堂の参詣道として、
利用する人が多かったようです。
起点は近鉄菜畑駅西側の生駒川に架かる2本の橋です。
生駒川についても解説が必要ですね。
前回エントリーで暗越大坂街道について触れました。
同様に河川についても、流れている地域によって、
名称が異なる場合があります。
生駒川とは竜田川のことです。
生駒に住む人々は「生駒川」または「大川」と呼ぶとのこと。
一分バイバスを横断して京みちに進みますが、
古道の面影は乏しく舗装路を歩きます。
西側には生駒山麓の森が迫っています。
左手に中菜畑郵便局が見えてくると、その向かいにありました。
「生駒の古道」(以降、「古道」と略します)によると、
この先の太融寺にあったものを移設したとのこと。
理由は伝染病の平癒祈願と言いますから、かなり昔の話でしょう。
名号碑に関して「生駒谷」(生駒市 石造文化財)
(以下、「生駒谷」と略します)の記述では、
「砂ぼこりをかぶってござるが立派なものである。」
と紹介されています。
確かに郵便局の隣が空き地でバスの方転所らしい。
しかし、見た感じでは汚れた様子はありませんね。
それどころか、掃除道具もあってキチンとされています。
紀年銘は永禄十一年三月十三日とのこと。
永禄十一年のエピソードとして、松永久秀の信貴山城への入城、
織田信長が将軍義昭を奉じての入京が紹介されています。
いずれにしても血なまぐさい時代であり、当時の民衆が
いかに平和を渇望していたかを今日に伝える石碑なのです。
「古道」の記述に従い二つ目の辻を進んで、
川沿いの道へ出ました。
生駒石搬出のための石出道だそうです。
さて、ここからこのルートの最大の難所(?)です。
何故かと言うとここから薬師堂までのルートが曖昧です。
「古道」でも詳述されておらず、案内図を見よとのこと。
薬師堂の位置はずっと西側のようです。
しかし、この地図やっかいですね。
南北が逆さまで、なかなか位置関係が把握できません。
住民表記があるのは助かります。
ここまでストビューなどで下調べしてますが、
さすがに表札まで見ることはできませんので。
(たまに写ってることもあります)
とりあえず、川沿いに歩いて行くことにしました。
田植えが始まっているようです。
田園風景の背景は生駒山と宝山寺の般若窟です。
大阪側では見ることのできない景色ですね。
合流したところは、以前に菜畑参道を歩いたルートです。
橋を渡ってしばらくのところに道標が立っています。
この場所にも案内図があるので、再度確認しました。
何度見てもイメージが掴めなかったのですが、
参詣道の道標から反対方向に進むようです。
地図で見た「奥野さん宅」の前を通過しました。
迷いながらも合っているようです。
石だたみの参道を登って行くと正面に薬師堂がありました。
かなり奥まで登ってきてます。
荒れた様子もなく、立派なお堂に手水と灯籠が左右にお出迎え。
峯の薬師(鬼取・鶴林寺)、枯木薬師(北新町)とともに、
三大薬師の一つとされ、信仰の厚さを伺わせます。
「生駒谷」では、「奥菜畑薬師さん」と紹介されています。
「傍らに石箱地蔵一体と新しい丸彫地蔵立像が坐す。」と
あるのですが、これが石箱地蔵でしょうか?
新しいものは見当たりませんでした。
お堂は綺麗です。手入れも行き届いてますね。
鎌倉時代の作で、元は疫病払いを祈願して造られたそうですが、
近年は子宝祈願で訪れる人が多かったようです。
「生駒谷」によると、左の折損部は天災が原因らしい。
半肉彫りであること、頭光が二重彫りになっているのが、
室町期以前の造作を推論する根拠のようです。
ですが、紀年は定かでないようです。
さらに「乳の薬師」として錐をお供えする風習があるそうです。
この「錐」って何でしょうか?
ググってみると、大工道具のようなんですが、
これが、「古道」の言う子宝祈願と関係があるのでしょうか?
そもそも「乳」となんの関係が? 謎だらけです。
お堂から伸びる道を登って行って見つけました。
あたりは石積みがあり、棚田跡のようです。
「古道」によると馬に乗ってきた薬師如来が石の上に降りたときの
馬の足跡だという言い伝えがあるそうです。
「生駒谷」では神足石と紹介されています。
いずれにしても案内板などないので、間違ってるかもしれません。
薬師堂から南東へ菜畑参道を経て京みちを進みました。
稲葉山と呼ばれる付近を通過したと思いますが、
菜畑城の跡などは残ってないようですね。
生駒神社北東隅にある道標です。
実は、以前に見つけていたのですが、
「すぐ京ミち」の銘を読み取れていませんでした。
その代わりに、背面を強引にのぞき込んで、
「安政五年」と読めていたようです。
昔はこの道で馬駆け神事が行われていたそうです。
神社の東斜面に四世紀ごろの居館跡があるそうなので、
見学しようと思いましたが、神社で何かの行事があるらしく
人が大勢集まっていたので、諦めて先に進みました。
公園の横にある地蔵堂です。ここも綺麗に整備されています。
天文種子十三仏板碑
かなり風化していてほとんど読めません。
「生駒谷」によれば、四列に十三仏が刻されていて、
紀年は天文二一年十二月とのこと。
真ん中のお地蔵さんです。紀年はありません。
右端のお地蔵さんです。こちらも紀年なし。
公園でお昼ごはんの弁当を食べ、
まっすぐ南に進むと、
第二阪奈道路の高架が見えてきました。
文珠川と交差するあたりに、南向きで立っておられます。
道路工事の際に、発見されたものだそうです。
「ついでに」と言うと失礼なのですが、
京みちをそれて、竹林寺に参拝しました。
行基さんのお墓で有名ですね。
お地蔵さんの頭部です。損傷と風化が激しいようです。
このあたりに関所があったらしいです。
関屋の由来と言われています。
今度は右半身です。肉彫りの立派なお地蔵さんです。
石工の工房があった場所とも伝えられていて、
石屋が「せきや」となり、関屋に転化したとも。
最後に正面から。お地蔵さん、見えません。
前方の台が激しくジャマ。。。
動かそうと思いましたが、固定されてます。
「生駒谷」では正面から全景の写真があるので、
最近に設置されたのでしょうか?
どけてまで撮影するほどバチあたりじゃないので、
諦めました。
献花や線香を風雨から守るのは理解できるのですが、
お地蔵さんは青天井で風雨に晒されてますよ。
ただでさえ損傷が激しいのに。
なんとも中途半端な気がします。
「生駒谷」では、関の地蔵が転じて
せき(咳)の地蔵となったことが紹介されています。
地蔵さんは何かと頼られて大変ですね。
地蔵立像に紀年はないようです。
消防署と学校が見えてきました。
この間を抜けて暗越街道に合流します。
小学校の西側にある細い路地のような道を通りました。
このあたりの古道は失われて定かでないようです。
暗越街道と合流しました。
写真の道標は、宝幢寺への道しるべです。
ここで「京みち」は終了です。
ほとんど舗装路です。
正直、古道の雰囲気はありません。
道は消えても、石仏は大切にされており、
信仰は今も息づいているようです。
まさに、「信仰の道」と言えましょう。
次回は、矢田道を歩いてみたいと思っています。
(2014.05.24)歩く
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