2015年4月に公開した「生駒の古道・辻子谷越(大阪側)」の続編です。これまで未発見だった石碑や道筋をご紹介します。しかし、続編を書けるようになるまで、2年半の月日を費やしました。生駒は奥が深いです。
https://juantonto.official.jp/part1_blog/ikomakodo-zushidanikoe/
生駒の古道「辻子(ずし)谷越」は、東大阪市の上石切町を起点とし、興法寺を経て宝山寺経塚に至ります。標高約575mを越える峠道でもあり、難所道として知られていました。宝山寺経塚からの奈良県側ルートは、昭和の水害で崖崩れが発生し、旧道はヤブと倒木で覆い尽くされていました。宝山寺経塚も例外ではありません。一時はイノシシの棲み家となり鬱蒼としていました。
宝山寺経塚 撮影:2016.9.25
復活した奈良県側ルートを歩く
宝山寺経塚から奈良県側ルートの途上には、江戸期に設置されたと思われる道標が三基と茶屋(ヤスンバ)跡の石垣が残されています。また、足元を注意深く観察すると、敷石の名残が散在しています。
※Google Photos Album に多数の写真をアーカイブしています。
奈良県側の道標を訪問年代順に並べました。三十四丁からはケーブル線敷設により移設されたと云います。三十丁石を見ると胸が熱くなります。
三十丁石と三十二丁石の間に石垣跡が残されています。かつて、ここには茶屋(ヤスンバ)があったと云いますが、一時期は伐採林を積み上げて通行止めになっていました。2017年12月現在、通過に全く支障がありません。感謝です。
宝山寺奥ノ院~福徳大神
大阪から遥々生駒山を越えてやってきた旅人。彼らが最初に立ち寄ったのは「宝山寺奥ノ院」でしょうか。めったに立ち寄ることのないエリアなので、大黒天堂~開山堂~福徳大神までバーチャル・ツアーに仕立てました。どうぞお楽しみください。
最新情報
「道」というものは、人が歩かなくなると急速に荒れて行きます。歩けば踏み固められて、歩きやすくなります。歩いた記録はYAMAPとヤマレコに公開していますので、少しでも興味を持っていただければ幸いです。
最新の記録はコチラ
生駒山系最大?「清滝」~辻子越(廃道部分)~客坊谷 / _toyoさんの鬼取山・旗立山(大阪府東大阪市)・生駒山(奈良県)の活動データ | YAMAP / ヤマップ
「生駒の古道」にチャチャを入れる
2014年、生駒民俗会は生駒市内の古道や街道を紹介した「生駒の古道」(以下、本書という)を出版しました。古絵図や古文書、土地の古老の話などを基に現地調査を行ったもので、古道を通して生駒の歴史や文化を学ぶ一冊です。
辻子谷越(奈良県側)は兼ねてより歩いてみたいと思っていました。しかし、道の状況から2014年3月23日以来、足を踏み入れていませんでした。躊躇する筆者の背中を押してくださったのは、「生駒の古道・重箱の隅」オーナーのM氏です。M氏が「重箱の隅」を突かなければ、続編は永久に書けなかったかもしれません。そこで、当方も同書に対してチャチャを入れて見たいと思います。
※正誤表があるかもしれません。その際はご容赦を!
一丁石(大阪側)とその根拠
※石切剱箭神社本宮(宮山)は興法寺尾根を越えた山中にあります。
辻子谷越の大阪側起点は、本書の云うとおり石切剱箭神社上ノ宮との三差路であることは間違いありません。ここには「生駒山宝山寺三十六丁」と刻まれた立派な道標が立っています。(この道標は前編にて紹介しています)
本書(P117)における「、、、民家の庭先にあります。」という一文は、「なるほど、そうだったのか」と思えます。しかし、昭和62年に刊行された「古道に残る信仰の道 宝山寺への道」によると、「この地点より約二百メートル下ったところ、(中略)近年「十三丁」の町石が発掘された。」とあります。この丁石こそは「民家の庭先」にあって、三差路が辻子谷越の起点であることを示す根拠だと云う。とても説得力のある調査報告なのです。三差路の立派な道標は、常夜灯の石燈籠とともに立ち、とても「庭先」には見えません。どう見ても「角地」です。
夢か幻か「六丁石」(大阪側)
※砂倉橋は音川から高尾渓への分岐点
続編を書くにあたり、どうしても解決しなければならない事が一つありました。それが「六丁石」の発見だったのです。本書では途中の見どころとして復元水車が取り上げられていますが、道標に関しては「六丁石を過ぎ七丁石で、三昧尾山に建つ十三重塔の分岐に到着します。」(P117)とそっけない。しかし、この一文は六丁石の存在を示唆しており、これまで何度も探索を試みながらも、発見できませんでした。仕方なく前編では砂倉橋の対面に建つ指さし道標を取り上げた次第です。
現在では、現役で稼働している水車は一基もなく、復元された水車が展示されています。
三昧尾は「さ(ざ)んまいお」と読み、墓地を意味する仏教用語です。周辺は陶製の蔵骨器などが出土する遺跡となっており、三昧尾山遺跡と呼称しています。
ついに発見した!(2017.12.14)
見つからないはずです。斜面で高く成長した笹竹が垂れ下がり、完全に六丁石を覆い隠していたのです。冬枯れと周囲の土砂が崩れたことで、ようやくご対面することが叶いました。
「六丁石」は「古道に残る信仰の道 宝山寺への道」の巻末資料において、なんと写真付きで紹介されているのです。これでスッキリいたしました。
鬼取山 八大龍王への参道を示す道標
この丁石に出会えたのもつい最近のことです。「六丁石」ほど執着心もなく、いつも通り過ぎていました。本書(P118)によると「旧道は新道を横切った反対側の竹藪の中です。」とあり、旧道とは「辻子谷越」のこと、新道とはハイキング道のことですね。この一文に続いて、「山頂の元峰薬師を示す「八大龍王十五丁」の大きな碑に出合います」と記されています。
大きな事には間違いありませんが、「十五丁」でなく「五丁」ですね。本書の言う通り「元峯薬師」だと、距離的に見て「五丁」は短い気がします。上部に「鬼取山」と刻まれていることから、峰薬師(旧鶴林寺跡地)とは考えにくいと思います。設置場所の説明についても、少々曖昧かもしれません。この道標は「新道」に背を向ける形で立っており、正面側へ回ると本当の「参道」が姿を現します。その旧「参道」は、旧道から新道を横断した草むらの中でした。※是非、現地でお確かめください。
辻子谷越から八大龍王
※写真多数あり。
最後に辻子谷越から分岐する「八大龍王古参道(仮称)」を紹介します。この道の再発見は、M氏の功績に拠るところです。ヤブの向こうに隠された明瞭な道跡を発見なさいました。石積みによる補強跡を確認できることから、往時は人の往来がかなり頻繁に行われたと想像に難くありません。道は大正十年銘の道標地点と、三十二丁石を過ぎた尾根筋の途中、都合二箇所から分岐しています。宝山寺への行き帰りで立ち寄るのに至便なルートです。
旧鶴林寺(八代龍王)
「八代龍王の滝」からさらに旧鶴林寺西之坊跡を越えて、暗峠まで参道は続きます。西之坊跡地には有名な「うつぶせ地蔵」の石碑が建っていますので、訪れる方は少なくありません。その先の崩落地点などに、人の手が加わって近年では最も歩きやすくなっています。不肖、筆者も多少の尽力をいたしました。
是非、お歩きになってください。では、また。